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​筑波大学 筑波能・狂言研究会とは

とは

​1.筑波能・狂言研究会とは?

私たち筑波能・狂言研究会は日本の古典芸能である能楽の実演・研究・鑑賞を目的とするサークルです。

シテ方、狂言方、研究方の3つの部門があり、それぞれ仕舞、小舞の実演、研究をおこなっています。

シテ方は西村高夫先生(観世流・銕仙会)、狂言方は山下先生(和泉流・萬狂言)にお稽古をつけてもらっています。

普段の学生練習は火・木・金の18時半から。場所は体育・芸術エリア近くの「開学記念館」です。

まったりとした雰囲気で活動を行なっていますが、公演前はみんな団結して一生懸命やります!

 

みなさまぜひお越しください!

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研究

​2.研究会の歴史 筑波大学以前

東京教育大学が筑波に移転し、筑波大学となる以前、東京教育大学には「大塚能狂言研究会(大塚研)」というサークルがありました。昭和21年に東京文理科大学で誕生した研究会ですが、同研究会で顧問を務めていた国文学者・小西甚一氏の回顧録が、筑波能・狂言研究会(筑波研)の20周年記念誌に掲載されています。その文章を引用し、東京教育大学での研究会について紹介します。なお、大塚研と現在の筑波研は、数年の断絶がありますが、小西氏は筑波移転後も副学長などを務めましたし、筑波研の初代顧問である北原保雄氏(現在の新潟産業大学学長)は大塚研の会員であるなど、大塚研は名実ともに筑波研の前身と言えます。

​「よけいな話」 筑波大学名誉教授(当時)・小西甚一

 戦後まもない頃、東京文理科大学・東京高等師範学校の学生たちが、大塚能狂言研究会というサークルをもっていた。名称だけからは学術的な研究活動をめざすものと聞こえそうだけれども、実質は能と狂言のお稽古集会である。

 会長は能勢朝次教授だが、実質的には尊敬されるべき看板役で、運営は学生に任されていた。しかし、何か表向きに活動するときには、教授の側から代表めいた役を勤める者が必要となる。そこで、そのころ助教授だったわたくし小西と、助手の故池田広司君がその任に当たった。わたくしが能、池田君が狂言という分担である。稽古に際しては、当然ながら指導者が必要となる。そこで、能は故観世寿夫、狂言は野村万之丞(いまは萬という名になっている)の御両所にお願いした。これは、能勢先生から頼んで下さったから、実現した。まだ二十歳台の前半だったけれど天才的なわざで知られる若手のホープ御両所にとって、けっしてありがたい役目ではない。寿夫さんは、親であり師匠である野村銕之丞(華雪)師に相談した由。まだ修行中なので、人様に教えるのは考え物ですが―という寿夫さんに対し、銕之丞師が「能勢先生のお頼みなら、引き受けなさい」とおっしゃったので、結局は実現の運びとなった。

 ところで、驚くべきことに、このお師匠様は、御両所とも報酬ゼロなのである。若手の花形であったお二人だから、まともな報酬ということになれば、学生たちの身分では、とうてい捻り出せそうもないのだけれど、寿夫さんは、無料でお教えする代わり、能勢先生の能楽講義に出席出来るよう、はからってくれないか―という注文を持ち出した。能勢先生に申しあげたら、聴講者が一人増えた分だけ講義が減るわけでなし―とおっしゃって、難なく実現した。万之丞さんのほうは、池田君がどんな頼みかたをしたのか、訊ね忘れたけれど、無料サーヴィスという結果は同じであった。

 これが機縁となって、寿夫さんとわたくしの間に、親密な付き合いが始まった。具体的に言えば、飲み友達になったのである。酔いが廻っても、話題はたいてい能のことだったが、そのなかで奈良県吉野の天川神社に蔵される古い能面をぜひ見たいと寿夫さんが言い出した。それを実現できたのは、県知事さんから神社への依頼状を頂戴した効果で、昭和三十年の秋であった。なかでも観世十郎元雅が奉納した阿古父尉という面を手にした寿夫さんの感動ぶりは非常なものだったけれど、研究者としてのわたくしも興奮せざるをえなかった。これも、考えてみれば、大塚能狂言研究会をお世話した余慶だろうか。(研究会名誉顧問)

 『筑波能・狂言研究会 創立二十周年記念誌』2002年、同会発行より引用

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